こんにちは!ヤミツキヤマト(@yamitsukiyamato)です♪
今回は大和市文化創造拠点シリウスの隣に位置する「ベトナム料理カフェaLoaLo」オーナー、田村幸美社長にインタビュー!!
大和市地域メディアとして飲食店を中心に紹介記事を公開してきましたが、今回は初めての試みとして「大和市で活躍する経営者インタビュー」を丁寧に紹介記事にしてみました。
今後、大和市内の様々な業種業態の「人」にもスポットをあてて、皆様に知っていただくキッカケとなれれば幸いです。
株式会社T.G.T 代表取締役 田村幸美さんとのインタビューが実現!!
上記写真の女性がベトナム料理カフェaLoaLoを運営する株式会社T.G.T代表の田村幸美(こうみ)社長です。
料理店をオープンさせるまでの道のりは、平和な日本では想像のつかないエピソードの数々。
アロアロに秘められた、飲食以上の深い意味に迫ります。
株式会社T.G.Tはアロアロの2階部分にオフィスを構えています♪
田村社長の運営する「ベトナム料理カフェaLoaLo」について
「ベトナム料理カフェaLoaLo」は2021年5月28日オープン。本場の美味しいベトナム料理が評判。
ベトナム在住歴のあるヤミツキヤマト夫婦のヤミツキ店です!
今回のインタビュー記事は、アロアロを経営する会社代表が日本国籍取得済みのベトナム人と知り、一体どんな方か知りたくなり取材を申し込みました。
クラウドファンディングでの縁をきっかけに実現したインタビューですが、ヤミツキヤマト夫婦にとっても得難い忘れられない時間となりました。
アロアロが誕生するまでの道のりに、息を飲むほど圧倒されました。
「大和市に、こんなしなやかな女性社長がいて、すごいことを成し遂げている」ことを知らせたくなりました!
少し長い記事となりましたが、田村社長の激動の半生を語っていただいたので、熱量も凄く…ぜひぜひ読んでいただきたい内容です。
来日のきっかけはベトナム戦争。命がけの渡航を経験
ベトナム生まれの田村さん。当時は日本に難民として来るとは夢にも思わなかったそう。しかし混乱が続くベトナムから脱出する必要に迫られ、お兄さんと一緒にひとまず香港に。
時は1989年。おそらく10歳に満たない年頃のことです。
香港の難民センターにいたのは1年未満。たくさんのベトナム人がいました。
インドシナ難民とは。
1960(昭和35)年〜1975(昭和50)年まで、約14年半にわたって続いたベトナム戦争。使われた爆弾の数は、第2次世界大戦で使われた爆弾数を上回っていたそうです。ベトナム戦争終結後、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では相次いで政変が発生し、新体制に移行。ベトナムでは社会主義体制下で迫害を受けるおそれや経済活動が制限されたりするなどの理由から、小舟でベトナムを脱出した人々(ボート・ピープル)や、陸路でタイ領に逃れたラオスやカンボジアの人々(ランド・ピープル)が続出。その数144万人に上る彼らはインドシナ難民と呼ばれ、世界的な受け入れが模索されました。
参考)https://ja.wikipedia.org/wiki/インドシナ難
香港のセンターには何人くらいいたかわかりますか?
ベトナム難民は当時10万人以上難民センターにいたと思います。そこで申請を出して別の国に難民申請を出して待ちました。
でも申請が受理されるまで何年もかかります。
1982年に申請しても1989年になってまだ受理されない人もいるほどでした。
7年経ってもまだ受理されないのですか。。。
はい。すると1989年に着いた自分達はいつになるかわかりません。そんな時、父が小さい船を確保しました。
その船はもともとベトナムから来た船。
すぐ船を確保しないとみんなが取ろうとした結果、穴が開いてしまい航海できなくなる。穴が開く前に森の中に隠して荷物を乗せて、日本に出発しました。
ボートピープルですね。日本につくのも奇跡という。
田村さんが青山学院大学に呼ばれて「難民当事者の経験と日本での生活」のテーマでお話しされた時の資料を拝見しました。
ある船に乗っていた約165人のうち助かったのは30人。体力のない女性子どもが先に死んで、体力のある男性が生き残ったケースでした。妻と子を助けられなかったベトナム人男性もいたとのこと。
私たちの場合は、香港を出航した後に台風が来てしまいました。
そこへたまたま遭遇した台湾の軍人さんが陸に上げてくれて難を逃れました。本当に九死に一生。そして1週間後また日本に向けて出発しました。2ヶ月くらい海上を漂流したと思います。途中、通りがかった漁船に助けを求めたりして食べ物をもらったりしました。
言葉がでてこないです。
狭い船に大人数が乗っていました。周りに物が何もなくて、女性としても大変で。お風呂に入れない。船には居場所も定まっていて、子ども達、運転手の家族達が優先。
海水でザリザリになって服が固まってました。海水を飲んで喉を潤すこともありました。海で死を覚悟しました。
そして、田村社長たちは運よく九州の福岡に行き着いて、長崎の大村センター(大村難民一時レセプションセンター、1995年閉所)にて過ごすことになったそうです。
命からがら小舟での漂着、長崎と品川での難民生活とは
先日、青山学院大学の学生が大村センターの写真を見せてくれました。とても懐かしくて、思い入れがある場所です。
どんな場所だったんですか?
フェンスに囲まれていて外に出られません。男女別の建物です。規律に従わなくてはならなくて、お湯を使う時間なども全て決まっていて自由がありませんでした。決まった時間に一日3食弁当。遊ぶ場所も、本もありません。できるのは運動するくらいでした。
言葉は悪いですが、まるで刑務所のような…。
ベトナム仏教の手を合わせたり、散歩したり、寝る。
ご飯を温める時は、ゴミ袋を二重にして、お湯を入れてゴミ袋を結んで、上にビニールを敷いて上にご飯を置いたりしてお湯の温もりで温めました。
お粥を作る時は、お湯の下に入れて作った。
ご飯の分量は、少食の女性は大丈夫でも、男性には足りない量です。
家族でも男女別棟。子どもは面会日が設定されていました。私は父と兄に会えるのはフェンス越し。フェンスとフェンスの間には通路がありました。
当時11歳。母がそばにいなくて、1人でなんとかしなきゃいけなかった。強くなるしかありませんでした。
大村センターには何人くらいいたか覚えていますか?
1万人くらいだと思います。そこで日本に難民申請しても1%しか通らない倍率でした。ほぼベトナムに送還されました。
スクリーニング(難民審査)が厳しかったですね。
彼らはベトナムに戻って再度申請して、最終的にはアメリカやオーストラリアなどに行き着くことができた場合もあります。
しかし、その過程でたくさんの人が自殺してしまいました。生きることに希望が持てない。電車に身投げして自殺したおばあちゃんもいました。
当時祖国ベトナムに戻っても安全の保障はなく、日本にいてもどうなるか見通せなかったんですね。
当時自分がその状況にいたら心が折れていた側だと思います。男性の方がそういう時に精神的に弱いと思うから…。
なぜそこで田村さんは希望を抱いて手を動かせたのか伺ってもいいですか?
何も考えていませんでした。ただ毎日を過ごして生きるだけ。その中で、今は何をやらなければいけないかできることを考えて日本語の勉強を始めました。
そこに至るのがすごいことだと思います。尊敬します。
日本に住めたことも幸運。
その後、品川区の大井町付近の難民センター(国際救援センター。日本語の勉強、就職の斡旋サポート。2006年閉所)に移れて、6ヶ月間日本語を勉強しながら就職支援してもらいました。
14〜15歳頃のことです。
品川で6ヶ月で日本語学習をしたとしても、それ以前に大村センターでベトナム人しかいない環境で日本語に触れることはできなかったのでは?
6ヶ月で日本語を身に着けられたんですか?
大村センターにいた頃は、警備員さんと話すことで日本語を学びました。
ペンも鉛筆も紙もなくて、トイレットペーパーがノート代わり。鉛筆は自殺に使われちゃうから配られません。
フェンスに輪ゴムをつけて「ください」と意思表示をして、短くなって自殺に使えない大きさで親指くらいの鉛筆をもらって字を練習しました。
今と違って昔の鉛筆の芯は硬いですよね。
鉛筆の芯は硬くて、トイレットペーパーは柔らかいのでよく破れました。ゆっくり書いて工夫していた。そこで少しずつひらがな、カタカナを学びました。
それが後々になって品川で大いに役に立ちました。品川で集中して勉強できる環境になって上達できました。
大村センターでは電気は20時で消灯。外の月明りや外灯下に段ボールを敷いて集まって勉強した。夏は蚊に刺されました。
そのまま蛍雪の功。すごい…
友達も一緒に勉強しながら、楽しかった。本もなくて何もない、やることもない代わりに、みんなで走ったり踊ったりしました。
部屋にキッチンはあったんですか?
キッチンもなかった。ただ寝る場所だけ。一人一畳。
一人一畳。それはだいぶ小さいですね。
壁が薄くて、冬はすごく寒い。扇風機も暖房もない。毛布は配ってくれますが、敷布団と掛け布団がありません。一人当たり毛布5枚。布団がわりにして寝ていました。冬場は1階で床が冷たくて寒さに耐えられない。畳に毛布を巻いて潜って寝ました。自作の寝袋を作ったような感覚。暑い時は暑い、寒い時は寒い。
2022年の今、難民を空調もない狭い環境下に置いたら大問題でしょうね。
現代の難民への対応を見ると、昔より手厚くなったなぁと感じます。ただあの時は国としても団体としてもやり方がわかっていなかったし、当時の対応は仕方ないと思えます。
20世紀と21世紀の違いは大きいですね。何でも揃っている環境で文句を言いたくなる自分が恥ずかしいです。
日本人に帰化する時の恩人との秘話
社会人として働き出したのはクリーニング工場でした。実は、私の「田村」という苗字はそこから来ています。
インタビュー前に、お名前の由来を伺いたいとお伝えしていました。
帰化する時に好きな苗字を選べます。一緒に働いた田村さんというおじいちゃんがいてお世話になりました。とても親切に接してくれた日本人です。
やり方もわからない自分に教えてくれました。タオルとかすごい量で運べない。田村さんがすごくサポートしてくれて。難民センターの人も良かったし、社会人になってからも日本人が優しかった。
帰化する時に、田村さんに苗字をもらっていいかと聞いたら、いいよと言ってくれて、田村を名乗るようになりました。恩人です。
恩義に報いる気持ちが伝わります。そんな素敵な方がいるなんて、同じ日本人として誇りに思います。
名前の「幸美」はコウミと読みます。
ベトナム語でも素敵な意味合いできれい。これは自分自身への想いを名づけました。
ベトナム語でなんと発音するのですか?
ハンメイ。ベトナム語でも漢字通りの意味です。
名前も苗字も自分で決める体験はすごく素敵なことですね!
画数事典とか買ってきて画数もしっかりと調べてあれこれ悩んで決めました。大変でした(笑)。1ヶ月くらい悩みました。
田村さんにとって、思いのこもった苗字と名前ですね。
大和市の難民受け入れ、日本屈指の外国人支援の歴史あり
今いる大和市は難民についても凄く詳しい。なかなか話すことのない難民時代の話をしっかり聞いてくれるような市の支援体制がありました。
自分の心が開いていけました。それまで自分の話はしたことがなくて、本当は恥ずかしい話(と思っている)。
私だけじゃない先輩達は、私よりも人に言いたくない経験をしていると思います。それでも先輩達はすごく優秀で日本で成功している人ばかり。私はまだまだです。
大和市は、新たな問題に対して先頭を切って対処していこうとするところがありますが、40年以上前の当時から外国人支援に力を入れていたんですね。
◆日本へ定住を希望する人への日本語教育、健康管理、就職あっせん を目的として、
1979(昭和54)年12月、兵庫県姫路市に「姫路定住促進センター」を、
翌 1980(昭和55)年2月、 神奈川県大和市に「大和定住促進センター」開設。◆1982(昭和57)年大和センター精神衛生カウンセリング開始。
◆1985(昭和60)年大和センター社会生活適応訓練(社会生活適応指導)開始。
◆インドシナ難民等の定住状況(2012年3月31日現在 難民事業本部調べ)
公益財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部2012年5月より抜粋
神奈川県が一番定住者受け入れが多く3571人。次いで兵庫県は1574人。
このように古くから難民支援をしていたので理解度があった。
大和市は住みやすいです。今は他の自治体でも外国人支援は増えているかもしれません。
独立の着想はボランティアから。大和市での起業まで
工場勤務から保険営業のお仕事に変わったきっかけを教えて下さい。
ベトナム人の友人がいて一緒にやらないかと声をかけられて。
独立を視野に入れていたので営業を経験してみたかった。募集人資格を取得して訪問販売に従事しました。
資格の勉強中は病気とか専門用語が多くてわからないこともあったら調べたり聞いたりしました。
いろんな方に手を伸ばしてもらいました。
資格取得後は同行営業からスタート。車での営業です。応援して保険契約してくれて、特に年上の方が可愛がってくれました。
「あなた、外国人なの。頑張ってね!じゃあ入っちゃお、入っちゃお♪」という感じで。
田村さんの雰囲気が柔らかいからだと思いますよ。車での営業というのもすごいです。
日本人からしたら私はダメなところが多いけど、でも応援してくれました。
真剣で本気というのが大前提なのが、所作や雰囲気から伝わってきます。田村さんの話の仕方や所作とか。
保険営業後、雇用保険の給付を受給しつつパソコンを学び、独立へ。
仕事をしながらボランティアもされていたんですか?
ベトナム人の各種行政などの書類申請の代行などをしました。例えば、日本に住んでいると学校からの日本語のお手紙や書類がとても多いんです。みんな手を借りたがっていました。
そんなボランティアを原点に、翻訳と通訳のアルバイトからスタートして会社を設立しました。
大和市では外国人が多いので滞留資格の更新などの手続きが多い。外国人が多く住むということは雇う会社も多く、徐々にネットワークができたそうですね。有料人材紹介に乗り出して1人でやってこられたそうですね。
ありがとね!という感謝の言葉が何より嬉しかった!やりがいを強く感じます。
自分には、ダメなところはたくさんあるんですよ。それでも、入り方がよかったのか、色んな方が受け入れてくれた。
会社の名前はどうやって決めたんですか?
T.G.T togetherトゥゲザーの頭文字です。
これは忘れないです!
アロアロも「もしもし」という意味ですぐ決まった。コミュニケーションカフェでスタートしているので、覚えやすい名前で。
ベトナムに着いて空港の至る所から「アロアロ♪」と電話で話す人をよ〜
く見かけます。
帰化したのはいつ頃ですか?
だいぶ前…独立前ですね。全て自分で。
帰化には、手間と時間がかかるイメージがあります。
帰化はとても時間がかかりました(笑)。それに無事故無違反じゃないとすぐNGです。幸運にも、事故を起こしませんでした。運転が上手かったのかも♪
え!? 異国で車で営業をして、無事故無違反とは!
申請中も油断できません。申請中に事故を起こすと申請は即取り消し。3年待たないといけない。住民税などの滞納なし、違反や罪なしでないとダメです。
仕事するのも怖い状況ですね(震え)。
申請は受理されるまで1年以上かかります。申請後、さらにベトナム大使館で国籍を外す期間にも1年以上かかります。それから労務許可(ワークパーミット)を取得するのは3〜4ヶ月くらいかかります。
その次は、名前が紐づいている全てを帰化した名前に変えます。市役所関係、銀行関係、保険関係、住宅ローンと手続の山!大変!エージェントを通さず自分でやりました。
苗字が変わった後の手続きが面倒だったのを思い出した!
驚愕です!ベトナム在住時、簡単な手続きが何一つなく、エージェントを頼った自分からしたら驚きと尊敬しかありません!
帰化するには、日本語の会話面談もあって日本語チェックが入ります。家族みんな面談を受けました。
面談には事前対策とかってあるんでしょうか?
過去問も何もないぶっつけ本番です。人によって質問が違います。
資格試験じゃないですからそうなりますよね。本当に一つ一つ壁を越えられてきたのが良くわかります。
仕事状況の確認とか色々日本語で聞かれました。逆の立場でベトナムに住むと、みんないろんなことを自分でやると思いますよ♪
お恥ずかしながら日本人が多い区域にいたのでそこまで経験していませんでした。田村さんは姿勢からしてすごいと思います。
株式会社T.G.T 田村幸美社長の覚悟の源泉とは
自分がやらないと誰もやれない。
親は日本語がわからない。
日本語が分かる私が家族を守らないといけない責任感がありました。
当時日本で外国人が仕事を見つけるのは大変でした。
電話して名前を名乗ると電話を切られました。私が仕事を見つけられないので親はもっと見つけられません。
母はまだ日本に来てなくて、学校に行きながら家事は全て自分がやりました。母の代わりに。
社会人になっても仕事と学校で、遊ぶ時間がない。帰化して3年後に母が来日できて家事を少し分担できるようになりました。秦野団地にいた頃です。
ワンオペが大変とかとても言えない状況ですね…。
母が来てくれて幸せでしたね。
たまに「10代に戻りたい。遊びたい。」と思うこともあります。
10代なんて、音楽聴いたり、夜ふかし、ゲーム、友達と喋ったりするのに…。
起業して10年、人材紹介会社代表としての想い
今いろんなベトナム人スタッフ皆様に囲まれて仕事している今、どうですか?
ベトナム人の子達が本当に良くやってくれています。
我が子を愛おしむような表情ですね。
ちょっとうるさいけどね(笑)。
会社の人間関係が楽しいです。日本人は仕事中にしゃべっているとイメージがダメかもしれない。
ただ私の場合は、笑顔に溢れる社風がいいですね。
日本に来て、異国での生活は皆大変だから笑顔で仕事をしてほしいです。できるところは守ってあげたい。
日本に来る前にも訓練とか色々ありますよね。
外国人技能実習生の来日前の借金平均は約55万円。内訳は事前教育費用、派遣手数料、保証金違約金など。借金している人は全体の5割以上。国別で見るとベトナムが67万円で金額が最も多い。続いてカンボジア、中国、ミャンマーと続く。
出入国在留管理庁より抜粋引用
ベトナムでは月収平均2万円とも4万円とも言われています。ベトナム人によっては1年半〜3年分の賃金相当額を払って日本に来ているようです。
受け入れた自分にはいろんな責任があります。
預かっているのはあの子たちの人生だもの。
いい会社を紹介すると人生が良くなります。ダメな所を紹介すると人生がダメになってしまう。
紹介した会社の先に「出会い」が待っていますね。
クリーニング工場で出会った「田村さん」みたいな人に出会うかもしれません。
日本に来た時、本人達にはわからないことがいっぱいです。私は先に来て知っているから教えたり相談に乗ったりしています。日本人の考え方とベトナム人の考え方があり、真ん中に入って話をしようと心がけています。
日本人としてもベトナム人としても気持ちを考えることができる立場ですね。ベトナム出身であると同時に、日本で会社を起業して社長をされています。
確かにそれぞれの会社のやり方があってサービスや対応があります。
私たちのやり方があるので、よくなるために(ベトナム人も日本人も)お互いを支援したいです。
以前に株式会社T.G.T社員の東さんがおっしゃっていたことがあるのでここで紹介します。
最近はベトナム人実習生のネガティブなニュースが増えていますよね。劣悪な環境を耐え抜いてボロボロになった実習生や、逃げ出したベトナム人が犯罪に手を染めた話などを聞くと胸が痛みます。
だからこそT.G.Tは人を紹介するだけの会社であってはならないと考えています。確かに人材を仲介するだけで、相手先に投げっぱなしの業者は存在しますが、T.G.Tは踏み込んだ形にしていきたいと思って人材紹介事業に携わっています。
踏み込んだ形と言いますと?
ベトナム人やアジア系の外国人は安く使えるからという偏見がありますが、決して安くはありません。
日本人と同等にしてもらうよう紹介先に働きかけています。
もっと安くできるだろうと言って認識を変えていただけない会社はお断りしているんです。
その会社に入っても、紹介したベトナム人達が辛い目にあって追い詰められ、その人の人生を変えてしまうからです。
東さんもベトナム在住歴があるんですよね。
ベトナム人の向上心と家族愛はどこにも負けないんじゃないでしょうか。家族と親族一同の期待を背負って日本に来ています。
自分自身のスキルを磨いていったら収入が上がっていって、まるまる家族が幸せになることにつながると言う芯がしっかりしています。
凱旋帰国をしたベトナム人の若者と、花束を持って親族勢揃いで出迎える姿をベトナムの空港で見かけました。
そうなんです。
だから家族の顔を直接知らなくても、顔が浮かぶし生活が想像できるんですよね。
それに、投げっぱなしだと次に繋がらなくなります。うちは少ない人数で事業を回しているので営業の間口をそんなに広げられません。
結局は理解して受け入れた会社さんが、ベトナム人を入れたことで好循環が生まれて、次を紹介してくれてお仕事に繋がってきています。
思いに正解はないですが、自分はそんな思いで事業に関わっています。
「ベトナム料理カフェaLoaLo」コロナ禍だからこそ飲食店の新規開店
人材紹介会社を経営して10年が近づく頃に、世界的なコロナ禍になりました。
そんなコロナ禍の2021年にベトナム料理カフェアロアロを立ち上げる決意をした時、反対の声もあったそうですね。
コロナ禍になったからこそ外国に行けなくなりました。
違う風景、違うところで食べたい。現地と同じ味を食べたい。思い入れがあると思います。
思い出してもらって、来てもらう場所があればいいじゃないかと思ってスタートさせました。
コロナ禍に雇用を作ったことにもなりますね。
結果、ベトナムを知りたい人にも、ベトナムを感じたいベトナム人にも求められていますね。
ヤミツキヤマト夫婦にとっては、大和市にベトナムを懐かしむ環境が出来て嬉しかったです。
それにT.G.Tのアロアロに行くとベトナム人の人となりが伝えられると考えました。
人材に困っている会社にとっては、外国人人材に関する相談を気軽にできます。実際にアロアロ店頭で顧客相談などもすることもあります。
人材採用の窓口にもなり得るとは!日本の会社にも求められていますね。
それで「ベトナム人と日本人のコミュニケーションカフェ」というコンセプトでスタートされたんですね。
オープンしてから1年が経ちましたが、今はどうですか?
おかげさまで来店者が多くて、支えられています。こんなに支えてくれる人がいるなんて嬉しいです。
ベトナム料理カフェアロアロは、アップデートの頻度が高いですよね。行くたびに発見があります。アオザイが変化していたり。
少しでも変わってほしくて!いつも来ている人がつまんなくなっちゃうから、元気が出るように!アオザイの並び方や、照明を少しずらしたりして変えています。
株式会社T.G.T 田村幸美社長を支えるもの
日本に来てご自分の居場所をしっかり作り上げていらっしゃる印象で、そんな田村さんを支えるものは一体何なのか、知りたかったんです。
なのでインタビュー前の質問に「好きな言葉や本、映画などを教えて下さい。日本語でもベトナム語でも英語でも構いません。」と伺いました。
悩みがある時、落ち込む時があります。
そんな時は、海で漂流したり、紙とペンがなかったりした難民の頃に意識を戻しています。
「今はいいでしょ。昔は食べ物も何もないでしょ。何もないところを見てきたから、今は大丈夫でしょ。」
それを思い出して「もう一回頑張ろう。何でも平気。」
それを繰り返しています。
自分がなんとぬるま湯に浸かった人生だなと思ってしまいました。
仕事については、
「失敗しても失敗があったからこそ、これから成功に向かって頑張りましょう。」
失敗ごとを見直し、自分の中で整理して、次にどう活かすか常に考えるようにしています。
本が好き。読む書籍はビジネス、人間関係がほとんどです。映画もビジネスの映画ばかり。
自分の欲しいものは、他人も絶対欲しいもの。「自分が欲しいものは他人に先に与える。」まずは私から。子どもにもそう教えています。
(周りの人を)幸せにしてあげたいです。
男の子を子育て中なんですよね。
送り迎えをしたり、一緒に勉強したりしています。ママの子どもの頃に比べて羨ましい勉強環境だって息子に言いました。
紛れもなく、だいぶよくなっていますよね。
スタッフに対しても、お子さんのような家族のような存在に見えます。言いやすい環境が窺えるというか。
心があるから。いいことをしないと自分にもいいことは来ないと思っています。
【想いに触れたインタビューを終えて】お店の裏側には心を持つ「人」がいる
今回は田村さんとスタッフの東さんからもお話を伺うことができました。
昔より今は良くなっているんだという捉え方にハッとさせられたインタビュー。
どんなできごとも前向きに捉えて人生を進んでいけたこと。出会った人に感謝できたこと。自分よりも社会や他人をまず考えられたことが、田村さんの人生を切り拓いてきたんだと思います。
「幸せにしてあげたい」というのが経営理念の根底にある気がしました。自分が関わったことでその人が幸せになったら自分も嬉しいですね。
T.G.T代表の生い立ちと想いが、親身な活動をする原点!togetherが社名の由来!
T.G.Tは国の印象を左右する窓口にもなっていることにも気付かされます。日本ってこんな国だよ、ベトナムってこんな国だよ、と両方の国の人に伝えているようなもの。
ベトナム人と日本人双方が幸せになる道を作る役割のT.G.Tとアロアロ!
外国人技能実習生のニュースが飛び交う今だからこそ、ますます日越の貴重な架け橋になっていくでしょう。
身近な大和市にこんなすごい会社を発見することができました。
みなさんもベトナム料理カフェアロアロに足を運んで下さい。ベトナムに興味がある人はもちろん、人材不足に悩んでいる会社の人も!
それにこの記事を読んで興味が湧いた方がいたらこれほど嬉しいことはありません。コメントをいただけたら大事に読ませていただきます。ドシドシお寄せ下さい。
T.G.Tご相談はこちらから。
コメント
コメント一覧 (2件)
以前、クラウドファンディングの引換券でお店に初めて入りました。(引換券分オーバーするくらい頼みましたが(笑)
店内も異国情緒あふれており、華やかでした。バインミーがとてもボリューミーでとても美味しかったです!
まさかこのような壮絶なバックストーリーがあったとは知らず…世の中にはそこ知れないパワーを持った方がいるんだなと知りました!(語彙力がなくてすみません)
コロナではありますが、ぜひこれからもお身体に気をつけてお店の経営頑張ってください。
コメントありがとうございます!お店にも足を運んでいただいたり、記事も読んでいただいたり光栄です。
もみゅるさんからの嬉しいコメントは田村社長にもお伝えします!すごく感激されると思います!